ランドスケープ

街並

 ここまでは主に住宅における外構工事について述べてきましたが、植栽を中心とした建物の外部のデザインはもちろん住宅に限られているわけではありません。
 道路や広場、公園、街並などのデザインをランドスケープデザインという言葉で呼び、今、その見直しが進んでいます。
 私も役所の仕事から民間の仕事までいくつか手伝いをさせていただいてきました。
 一軒一軒の住宅デザインもランドスケープに影響を与えます。周囲の環境に馴染まないデザインは全体の景観の調和を破ると言う点で迷惑なだけでなく、その建物そのものをも美しく感じさせてはくれません。周囲との調和の上で、それぞれの建物も美しく見えるのだということを知っておく必要があります。
 建売住宅などで4軒の家が集まれば、そこにはやはり明確なランドスケープデザインが必要となります。たった4軒でも街並が生まれ、建物の素材や色彩、門扉やフェンス、ポストなどのデザイン、街灯や門灯の考え方、樹木の種類などを全体を対象にして調整する事で、ただ漫然と計画するよりはるかに魅力的な環境を作ることができるのです。
 テナントビルなどの商業施設はもっとはっきりとランドスケープデザインの意味を認識する事ができます。テナントビルは間借りしている会社にとっては会社の顔だからです。
 近年、テナントが入らずがらがらだったビルの、外装と周囲の植栽などの外構に手を入れただけで、またたく間に空いていたスペースが埋まったと言う話もよく耳にします。
 景気の後退で事務所ビルが苦戦している今、そういう仕事にもチャレンジしたいと思っているところです。
 ビルのオーナーにとっても、中に入る会社にとっても、そこを行くただの通行人にとっても喜ばしい事だからです。そして工事費も内部の大改造と比較すればさほど必要ではありません。


ストリートファニチュア

 ストリートファニチュアとは文字通り街並の家具のことです。ベンチ、ゴミ箱、灰皿、さらに広い意味では電話ボックスや交通看板、バス停、渡り廊下なども含みます。
 ごく若い人は別にして、日本のそれらストリートファニチュアのデザインが昔と比較して格段とモダンになってきたことは皆さんご存知の事と思います。もっとも、昔のデザインは昔のデザインで捨てがたい味わいがありましたが。
 このストリートファニチュアもランドスケープの重要な要素になります。これによって風景ばかりではなく、街の利便性が大きく増すからです。
 ストリートファニチュアについては、長い間そのデザイン性の向上にばかり労力が注がれてきました。しかし、ここに来てそれに少し変化が現れています。もちろん今後もよいデザインの追及は続くでしょう。それは街に変化と活力を生むからです。
 しかし、一方で老人や身体障害者の人たちに対する配慮、バリアフリーやユニバーサルデザインに対する研究が進んでいます。すべての人たちを対象として使いやすい街を作るツールとしてストリートファニチュアが見直されているのです。
 私が個人的にこだわりたいのは、これからどんなデザインのストリートファニチュアが必要かではなく、どんな種類のストリートファニチュアが必要かを考える事です。
 例えばかつて街でメモを取る人はほとんどいませんでした。しかし、携帯電話が普及した今、片手で携帯を持ったままメモを取らねばならないことも多々あります。街にテーブルが必用なのではないでしょうか。これはほんの一例ですが、こういう切り口からストリートファニチュアを考えていこうと思っています。

 
看板

 このホームページの住まいのイメージ素材集にも書きましたが、ランドスケープや景観の話が出るたびに俎上に登るのが看板の話です。看板が景観を壊している、規制するべきだと言うわけです。
 しかし、この意見はあまりにも単純に過ぎます。看板は景観の一部であり、文化の一部でもあるのです。お寺の山門に「○○寺」と掲げられているのも看板ですが、まさかあの看板をはずせなどという人はいないでしょう。
 また、香港やラスベガスの街並から看板を取り除いたら町の魅力は全くなくなってしまいます。
 あたりまえの話ですが、看板はあった方がいい場所、あってもいい場所、ない方がいい場所があるのです。そういう議論抜きでただ規制しようという風潮には首をかしげざるを得ません。
 また、良い看板、美しい看板は景観を壊すどころか逆に蘇らせることもあります。そういう看板のデザインも研究したいと思っています。


モニュメント

 モニュメントはランドスケープ作りのアイテムとして近年、特に新しい町や駅の周辺や公園に置かれているのを良く見かけます。アイキャッチとして街の風景のスパイスとしての役割を果たしています。
 かつてモニュメントではなく、銅像は良く置かれました。西郷さんやハチ公などが有名ですし、ロンドンなどはいずれ銅像で埋まってしまうのではないかと思うくらい、街のあちこちに銅像が置かれています。
 銅像はもともとは芸術作品ではありません。人の業績をたたえると言う目的を持っているからです。しかしその銅像を作るのは彫刻家です。そしてその部分だけが残り、街に彫刻家の作品を置く風潮が広がったのではないかと思います。昔の彫刻家の作品はそのほとんどが人体でした。しかし今の彫刻家は人体は作らず抽象的な造形作品を作ります。結果としてモニュメントが街に溢れることになりました。
 個人的には彫刻家の芸術をモニュメントとして街に置くことに反対です。芸術には意味があるからです。意味は押し付けであり、軽やかであるべき街を重たくするような気がするのです。
 モニュメントが例えば時計台という役割を持っていたり、動きや音が芸術よりはむしろ遊びに近い楽しさを提供するなら良いとおもうのですが。私がデザインしたモニュメントは風で動き、かつカランコロンという音を発します。
 この分野もまだまだ研究の余地が残っています。変なモニュメントが溢れる背景にはそれを置く役所や企業の担当者がそういう世界に疎いと言う現実もあります。モニュメントそのものが街並に馴染むかどうかではなく、作家の公募展などでの入選歴などを採用の基準にするのです。主観を挟む余地のない役所としては致し方ないことなのかもしれませんが、結果が悪かったらむしろ置かない方がよいように思います。
 この分野ではデザイナーや彫刻家と共同で仕事をすることになります。

 


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